日記というのは
「日常を記すもの」
なんだろうけど、
「日常の何を記録するか?」
なんて普通はいちいち考えて日記を書いたりしない。
そんなわけで、このBlogなんかはまさにそうなんだけど思いつくままに自動書記的にダーッと書いていくと書き綴られているのが「違和感」であったりする事に気付く。
多分、これは俺だけではない。
例えば、まだ暑いと思ってTシャツで出掛けたけど、帰りは寒かった、みたいな事も昨日までと今日の違いだったりするわけで。
事実がどうあれ、「永遠に同じ日が続く」と実感している人が毎日、日記を書くというのは多分、無理だと思うし、書いても無意味だと思う。
社会とは「色んな人がいるところ」だ。
「色んな人」は他者と呼ばれる。
つまり、「他者の集合体が社会」。
他者は絶対にわかりあえないと言うか、相容れる事が難しい存在。
生きている限り、相容れない存在と争い続けるのも、気に喰わないからと徹底的に排除し続けるのも現実には不可能で、誰もが相容れない相手と辛抱強く向き合って、なんとか折り合いながら、大変な苦労を抱えて生きているわけです。
大抵の人は「夏休みの絵日記を毎日書く」っていう宿題に、大変な苦労をしたと思うが、あれは今思うと、そもそもが無理な話なのだ。
大抵の子供は社会に生きてはいるけど、社会に塗れて生きているわけじゃないから、ギャップなんかない。違和感がなければ、「何も書くことがない」というのは当たり前。
そもそも親の庇護の下、生きていたら他者と出会い、粘り強く、辛抱して折り合っていく、なんて事は必要ない。
EV Cafeっていう本だったと思うんだけど、吉本隆明の子供の頃が大変、興味深い。
吉本隆明が子供の頃は戦時中だった。
上官が話している時に整列しない、ガムを噛んでいる、煙草を吸っている米兵たちを見て、周囲の大人たちは「あんなだらしない奴らに日本が負けるわけがない」と笑っていたが、吉本隆明少年は「日本は負ける」と直感した。
米軍が「個を活かす」集団であるという事を直感したからだ。
集団を個の集合体と考えるか、
個は集団の一要素として考えるか、
は、立場によって違うと思う。
しかし、これからは前者で考えておいた方が良い。
トップダウンは発展途上国向きだから。
とにかく、
社会とは何か?
個人とは何か?
について、考えておいた方が良い時代だし、なんとなく漠然と「こんなニュアンス」ととらえていた概念の大半がゆっくりと、目に見えない形で変わっていくと思う。
目に見える形はジェネレーション・ギャップなんだけどね。
こういった抽象力でしか発見出来ない事がある、という事を、俺は柄谷行人の「探究」に学んだ。
だけど、それを説明するのは難しい。
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