シナリオライターのFiction Diary 2 | 松慎一郎

脚本家・ライター:松慎一郎のBlog。 『誤字脱字・破綻上等&気が向いた時に書き飛ばし』でGo。

タグ:個人

学生時代の親友は3人いて、去年、そのうちの2人を亡くした。
一人目を亡くしたのは一年前の今日。9ヶ月後にそいつのかみさんがセピア色の夢に出て来てスマートフォンの画面の中から「忘れないで」と語りかけたところで目醒め、帯状疱疹に罹患した。
堪えていたのが、身体に出てしまったんだろうな。
親友はクラブ・ミュージックシーンで活躍していたが、10年近く会っていなかった。
けど、「あいつは親友か?」に、会っているとかいないとか、俺にとってどうでもいい。
もっと言ってしまえば、そいつが俺を親友と考えているかどうかも関係ない。
大切なのは俺自身の気持ちだけだ。いちいち、契約交わすような事でもねえし、生前、亡くした親友のおふくろさんの告別式に俺は出たんだ。
親友と思っていなければ誰が行くものか。


キーボードを叩きながら気が付いたんだけど、生き別れた人、亡くした人、つまり俺にとって大切な人は皆、我慢強かった。その我慢強さによって傷付き、俺たちは離れ離れになってしまった。どの別れも辛いものだったが、そんな人たちだから、おれはその人達が大好きだったんだ。

三浦雅士が、「個人とは、他者と過ごした時間の蓄積によって作られた現象」と書いていた。
つまり、大切な人を失くすという事は、自分を構成しているとりわけ特別な時間が抜け落ちてしまうという事だ。

50を過ぎると出会いよりも、長く親しんだ誰かを失くす機会の方が当然、多くなる。

誰かを失くす度に自分を構成する「時間」が抜け落ちてゆき、自分の中にたくさんの空洞が出来てゆくと足元が揺らぎ始めるだろう。時間は掛け算だからその空洞は本人をすっぽりと覆ってしまうほど深くて暗い。

空洞は物語論で言うところの「欠落」、「喪失」だが、物語はそれでも生きようとする主人公の意志(エロス)がエンジンになって走り出す。

俺個人で言えば、最愛の人をオーバーワークによるメンタル疲労で失った事で自分で自分を壊してしまった。彼女が暴走したコンピュータのように突発的な行動が続き、もう二度と元の人間には戻らないのではないかと考えていた日々は悪夢だったが、絶望しながらも俺は完治を望んだので側を離れなかった。

彼女が以前とまったく同じ状態に戻る事を何よりも望んだ。病を抱えながら弱々しく生きるしかない、みたいな「現実」は絶対に受け入れなかった。もし俺が彼女の完治を望まず、「一人になるのが嫌だ」と駄々をこねるガキみたいに自分の事だけを考えて彼女を手放さなければ、あのまま一緒に居ただろう。

彼女もそれを望んだが、彼女が病んだ状態のまま只々、一緒にいる為に俺の全てを受け入れて暮らすみたいなのはダメだと思ったんだよ。苦しみを抱えたまま俺といるよりも彼女は元の状態に戻らなければならない。彼女は奴隷じゃない。彼女は不幸な人間ではない。彼女は自由で意志的で自立心も強く、幸せな存在だ。友達はみんな、とっくに地元に戻っていて、東京には俺しかいないから、俺とふたりぼっちだと彼女は奴隷のようになってしまう。だから心を鬼にして、彼女を地元に戻した。俺の望んだ彼女の幸せ、彼女の完治には地元に帰さなければならなかった。彼女は辛かったろう。俺自身も自分で自分を壊してしまった感じで、もう二度と自分が回復しない事がつらかったな。それでも俺のことなんかどうぶっ壊れても良かったんだ。だけど、自分にとって何よりも大切で、信じていたものが裏切られ、壊れていくのを目にしながら、捨てられた無力でバカなガキみたいに世界の中で誰一人寄り添う者のいないひとりきりになっていくと、風景も冷え切って色を無くしていくようだった。

もう二度とこの世界で喜びを感じることはなく、願いは何一つ叶わなくとも生きていかなくてはならない。死を選ぶ事は敗北だ。俺は敗北を受け入れた事はここまで一度もないし、これからも100%受け入れる事はない。だが、幸せも喜びもあり得ない世界で強く生きなければならない、と絶望的な決意をいつも思い知らされながら生きている。それでも彼女が壊れたまま奴隷のように生きる事になってしまうよりはマシだった。だから自分の決断に苦しみは伴うが後悔はない。それが出来たのは自分が本当に大切にして貰ったからなんだろうな。俺の勇気とかそんなもんじゃない。

マーケットがあるとかないとか関係なく、喪失については近々、思うところを書くつもりです。
ここを読んでいるのは友達や知り合いだけで、皆に等しく喪失の機会はこれから訪れる。
その時が来た時にとても大事な事だと思うからね。

下記、引用は親友を亡くした日にfacebookに投稿したものです。
Kへ。
楽しかったよ。今までありがとう。
The Harder They Comeはまるで俺たちみたいだね。
昨日は俺が2年で出て行った高校のクラスメートの訃報が入り、自分にしか連絡が取れないであろう、当時の親友に連絡を入れたらそこでまた訃報(別件)が入った。
前者とは特別に親しくはなかった。だが、その後の交流がなかっただけに流れた時間の大きさを思い知らされた。
後者は親友だったので、現在の自分を形成する一部となっていて、身体の一部をもがれたような無力感に襲われた。
今朝は正月飾りを外して仕事。
昼食は胃を休めるための七草粥。
その後、チーズバーガーとフライドチキン。


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日記というのは

「日常を記すもの」

なんだろうけど、

「日常の何を記録するか?」

なんて普通はいちいち考えて日記を書いたりしない。

そんなわけで、このBlogなんかはまさにそうなんだけど思いつくままに自動書記的にダーッと書いていくと書き綴られているのが「違和感」であったりする事に気付く。

多分、これは俺だけではない。

例えば、まだ暑いと思ってTシャツで出掛けたけど、帰りは寒かった、みたいな事も昨日までと今日の違いだったりするわけで。

事実がどうあれ、「永遠に同じ日が続く」と実感している人が毎日、日記を書くというのは多分、無理だと思うし、書いても無意味だと思う。


社会とは「色んな人がいるところ」だ。

「色んな人」は他者と呼ばれる。

つまり、「他者の集合体が社会」。


他者は絶対にわかりあえないと言うか、相容れる事が難しい存在。

生きている限り、相容れない存在と争い続けるのも、気に喰わないからと徹底的に排除し続けるのも現実には不可能で、誰もが相容れない相手と辛抱強く向き合って、なんとか折り合いながら、大変な苦労を抱えて生きているわけです。


大抵の人は「夏休みの絵日記を毎日書く」っていう宿題に、大変な苦労をしたと思うが、あれは今思うと、そもそもが無理な話なのだ。

大抵の子供は社会に生きてはいるけど、社会に塗れて生きているわけじゃないから、ギャップなんかない。違和感がなければ、「何も書くことがない」というのは当たり前。

そもそも親の庇護の下、生きていたら他者と出会い、粘り強く、辛抱して折り合っていく、なんて事は必要ない。


EV Cafeっていう本だったと思うんだけど、吉本隆明の子供の頃が大変、興味深い。

吉本隆明が子供の頃は戦時中だった。

上官が話している時に整列しない、ガムを噛んでいる、煙草を吸っている米兵たちを見て、周囲の大人たちは「あんなだらしない奴らに日本が負けるわけがない」と笑っていたが、吉本隆明少年は「日本は負ける」と直感した。

米軍が「個を活かす」集団であるという事を直感したからだ。

集団を個の集合体と考えるか、

個は集団の一要素として考えるか、

は、立場によって違うと思う。

しかし、これからは前者で考えておいた方が良い。

トップダウンは発展途上国向きだから。

とにかく、

社会とは何か?

個人とは何か?

について、考えておいた方が良い時代だし、なんとなく漠然と「こんなニュアンス」ととらえていた概念の大半がゆっくりと、目に見えない形で変わっていくと思う。

目に見える形はジェネレーション・ギャップなんだけどね。

こういった抽象力でしか発見出来ない事がある、という事を、俺は柄谷行人の「探究」に学んだ。
だけど、それを説明するのは難しい。 

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