louReed

























世界中の小説を読んでいるわけではないので、あまり迂闊な事は言えないけど、小説は映画と比較するとあまり変化していない印象。

この先もあまり劇的な変化って起こらない気がするな。

 翻って10年後の映画は、今まで映画と呼ばれていたものとかなり変わっているんじゃないか、と思っています。

3Dとか色んな試みがことごとく失敗しているけど、失敗は試行錯誤の過程に過ぎないし、失敗している限り、新しい何かが生まれてくる可能性の芽は常に確保されている、と。(つまり、チャレンジしているという事なのですが)


 文学と映画について比較して考えてみる。一番始めに思い浮かぶのは変化のスピード。

映画ってテクノロジーの変化を受けやすいし、テクノロジーは予算と密接に関わっていて、過去に数千万単位の予算が必要な編集が自宅のMacで今は可能だったりする。
個人作業で映画が完結してしまう事のメリットはあちこちで語られているのであえてデメリットを挙げてみると、やはり映画が趣味的なもの、になってしまうという事かな。

こうやって映画の質は、テクノロジーによって変化する。

文学はまぁ、良くも悪くも映画程にはテクノロジーの進化に影響されない。

変わらないだけに、結果として普遍性が問われるので、それが文学の価値かもしれないけど。


 もう一つ、何故、10年後の映画について、「今とは全く違うものが映画と呼ばれているのではないか?」と考えているかと言えば、スピルバーグのインタビューが印象に残っているからです。


スピルバーグは

「今、自分が二十代の若者で映画を作りたいと思っていたらゴールを劇場だけに絞ったりしない。劇場とせいぜいTVしかなかった昔と違って、今はそれこそYouTubeやスマートフォンや映像を必要とするチャネルが多数存在する。それだけ映像作品を提供する場は増えた、という事だ。だから出来るだけ色んな場所でそれぞれのフォーマットを利用して作りたいと考えるだろう」

みたいな事をインタビューで答えていました。


正直、自分も劇場映画に拘りたい感じもあるんだけど、そういうこだわりって「映画」という器に頬擦りしているだけで、実際に作品に何も込められていない気がするんですよね、あくまで俺個人の考えですが。

予算も今まで以上に限られてくると、作品もニッチな客層を狙わなくてはならなくなるでしょう。

イメージとしては映画関係者は皆、インディーズバンドでライブハウス巡りをして喰い繋ぐ、みたいな感じ。

予算がない中で確実な収益を見込んだり、もしくは自腹なのでと趣味的に走りすぎて映画マニア以外、誰も映画を観なくなるかもしれない。

たまにはマニアックさ故に受けたりしてね。

同性愛者で泥棒だったジュネが自身の体験を綴った泥棒日記が全世界の人に読まれるようになった理由もそれだったかもしれないし。(作品評価は別だ)


あ、ここで言っている映画っていうのは、あくまで今日・現在まで映画と呼ばれているものだよ。

十年後、映画と呼ばれているものはアトラクションみたいなものだったり、ゲームみたいなものだったり、とどうなっているか、誰にもわからないんだから。

覚えておいて、今、映画と呼ばれているものと十年後に映画と呼ばれるモノは違っている気がするって話だからね。


■今日の出来事

今朝、ルー・リードが亡くなりました。だから今朝は彼のアルバムを聴きながらこのBlogを書きました。

俺にとって彼はSTAXのR&Bを愛したミュージシャンであり、小説『コイン・ロッカー・ベイビーズ』(村上龍)で知って、17の頃に単身、ドイツに渡った飛行機の中で聴いたアーティスト、です。

Twitterでは彼の楽曲のYouTubeへのリンクが多く貼られています。

よく誤解されるのですが、俺はロック好きじゃないです。音楽好きの『ロック好き』嫌いです。なんか、ロックを語っているおっさんって骨董好きな老人みたいで嫌なんだよね。クラプトンオヤジとか高校生の頃から嫌だった。

まぁ、そんな自分があまりTwitterでは見られなかった楽曲を以下に貼っておきましょう。

俺にとってちょっとした思い出の曲、彼の訃報に触れるまでそんな思い出を忘れていた曲です。

この曲はとっても可愛いよ。

ロック好きは嫌いだけどロックに限らず、大抵の音楽は素晴らしいと思います。

実際、音楽が嫌いって人、あまりいないでしょ?