学生時代の親友は3人いて、去年、そのうちの2人を亡くした。
一人目を亡くしたのは一年前の今日。9ヶ月後にそいつのかみさんがセピア色の夢に出て来てスマートフォンの画面の中から「忘れないで」と語りかけたところで目醒め、帯状疱疹に罹患した。
堪えていたのが、身体に出てしまったんだろうな。
親友はクラブ・ミュージックシーンで活躍していたが、10年近く会っていなかった。
けど、「あいつは親友か?」に、会っているとかいないとか、俺にとってどうでもいい。
もっと言ってしまえば、そいつが俺を親友と考えているかどうかも関係ない。
大切なのは俺自身の気持ちだけだ。いちいち、契約交わすような事でもねえし、生前、亡くした親友のおふくろさんの告別式に俺は出たんだ。
親友と思っていなければ誰が行くものか。


キーボードを叩きながら気が付いたんだけど、生き別れた人、亡くした人、つまり俺にとって大切な人は皆、我慢強かった。その我慢強さによって傷付き、俺たちは離れ離れになってしまった。どの別れも辛いものだったが、そんな人たちだから、おれはその人達が大好きだったんだ。

三浦雅士が、「個人とは、他者と過ごした時間の蓄積によって作られた現象」と書いていた。
つまり、大切な人を失くすという事は、自分を構成しているとりわけ特別な時間が抜け落ちてしまうという事だ。

50を過ぎると出会いよりも、長く親しんだ誰かを失くす機会の方が当然、多くなる。

誰かを失くす度に自分を構成する「時間」が抜け落ちてゆき、自分の中にたくさんの空洞が出来てゆくと足元が揺らぎ始めるだろう。時間は掛け算だからその空洞は本人をすっぽりと覆ってしまうほど深くて暗い。

空洞は物語論で言うところの「欠落」、「喪失」だが、物語はそれでも生きようとする主人公の意志(エロス)がエンジンになって走り出す。

俺個人で言えば、最愛の人をオーバーワークによるメンタル疲労で失った事で自分で自分を壊してしまった。彼女が暴走したコンピュータのように突発的な行動が続き、もう二度と元の人間には戻らないのではないかと考えていた日々は悪夢だったが、絶望しながらも俺は完治を望んだので側を離れなかった。

彼女が以前とまったく同じ状態に戻る事を何よりも望んだ。病を抱えながら弱々しく生きるしかない、みたいな「現実」は絶対に受け入れなかった。もし俺が彼女の完治を望まず、「一人になるのが嫌だ」と駄々をこねるガキみたいに自分の事だけを考えて彼女を手放さなければ、あのまま一緒に居ただろう。

彼女もそれを望んだが、彼女が病んだ状態のまま只々、一緒にいる為に俺の全てを受け入れて暮らすみたいなのはダメだと思ったんだよ。苦しみを抱えたまま俺といるよりも彼女は元の状態に戻らなければならない。彼女は奴隷じゃない。彼女は不幸な人間ではない。彼女は自由で意志的で自立心も強く、幸せな存在だ。友達はみんな、とっくに地元に戻っていて、東京には俺しかいないから、俺とふたりぼっちだと彼女は奴隷のようになってしまう。だから心を鬼にして、彼女を地元に戻した。俺の望んだ彼女の幸せ、彼女の完治には地元に帰さなければならなかった。彼女は辛かったろう。俺自身も自分で自分を壊してしまった感じで、もう二度と自分が回復しない事がつらかったな。それでも俺のことなんかどうぶっ壊れても良かったんだ。だけど、自分にとって何よりも大切で、信じていたものが裏切られ、壊れていくのを目にしながら、捨てられた無力でバカなガキみたいに世界の中で誰一人寄り添う者のいないひとりきりになっていくと、風景も冷え切って色を無くしていくようだった。

もう二度とこの世界で喜びを感じることはなく、願いは何一つ叶わなくとも生きていかなくてはならない。死を選ぶ事は敗北だ。俺は敗北を受け入れた事はここまで一度もないし、これからも100%受け入れる事はない。だが、幸せも喜びもあり得ない世界で強く生きなければならない、と絶望的な決意をいつも思い知らされながら生きている。それでも彼女が壊れたまま奴隷のように生きる事になってしまうよりはマシだった。だから自分の決断に苦しみは伴うが後悔はない。それが出来たのは自分が本当に大切にして貰ったからなんだろうな。俺の勇気とかそんなもんじゃない。

マーケットがあるとかないとか関係なく、喪失については近々、思うところを書くつもりです。
ここを読んでいるのは友達や知り合いだけで、皆に等しく喪失の機会はこれから訪れる。
その時が来た時にとても大事な事だと思うからね。

下記、引用は親友を亡くした日にfacebookに投稿したものです。
Kへ。
楽しかったよ。今までありがとう。
The Harder They Comeはまるで俺たちみたいだね。
昨日は俺が2年で出て行った高校のクラスメートの訃報が入り、自分にしか連絡が取れないであろう、当時の親友に連絡を入れたらそこでまた訃報(別件)が入った。
前者とは特別に親しくはなかった。だが、その後の交流がなかっただけに流れた時間の大きさを思い知らされた。
後者は親友だったので、現在の自分を形成する一部となっていて、身体の一部をもがれたような無力感に襲われた。
今朝は正月飾りを外して仕事。
昼食は胃を休めるための七草粥。
その後、チーズバーガーとフライドチキン。