俺と居た頃よりも、幸せでいるだろう。

そう信じて、それを希望として生きる。

そんな希望は皮肉であり、自分に対する死刑宣告だ。

誰に理解されなくても構わない。

ただ、相手にそれが必要だと気付いてしまうと、自分を独りにしてしまう事を恐れなかった。

自分の安心よりも、相手の回復を願ったからだ。
突き放そうと故意に冷たく当たり、傷付いた姿を目にして自責の念に不眠に悩まされた。
それでも彼女の幸せのためにひとりで生きる事を決意して、その後の生活の困難の中で「本当にこれで良かったのか?」と自分の判断を疑いながら生きる日々に、親友の自死を知らされた。
こうなるしか無かった自分たちを思い知る。

だが、回復を願った彼女への想いも、自死を選んだ親友に対する想いも、初めて出会った時から現在に至るまで、一度も変わらずにいた。かけがえのない存在であり続けている。


「本当にこれで良かったのか?」という自己疑念も、「こうなるしか無かった自分たち」という結論も、最終判決は等しく永遠に保留される。
何者も、誰かを裁く事は出来ないからだ。自分を裁くのは自分自身しかない。

だから、粘り強く自分と闘うしかない。生きる執念が、勝敗が決する。

粘り強さの源泉が「皮肉」であり、自分自身に対する「死刑宣告」であるというのは、それこそ皮肉だ。

「それでも生き続ける日々」とは「自分が何故、生きているのかを問い続ける日々」で、それは生きている限り続く。だから粘り強くなければならない。

自己否定に苛まれながらも失くした存在への変わらぬ想いこそが、死んでしまわないための力になるという事。それは世界の中でひとりきりの生をまっとうする決意かもしれない。

誰に理解されなくても構わない。

あの時、そう決断したはずだがそれでも、「そんな想いは伝わるのだろうか?」という想いに、ひとりきりで見る風景は満たされてゆく。

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