シナリオライターのFiction Diary 2 | 松慎一郎

脚本家・ライター:松慎一郎のBlog。 『誤字脱字・破綻上等&気が向いた時に書き飛ばし』でGo。

2013年11月

無名の一般人であってもその身の上に現実に起こった事を時系列に並べると、

運命があまりに過酷に作用していると驚かされた事がある。

だが、それを脚本の構造にきちんとビルドアップすると、その強烈さは失われる。

「ドラマチックで面白いと思ったけど、映画向きではないのか?」

と思いきや、そうではなく映画はエンターテインメントだからなんだ、と思い至った。

わかりにくいと思う。



大抵の映画作りの本には

「ラストはハッピーエンドで締めろ」

という事になっていて、ハッピーエンドを目指す事それ自体は

正しいと思う。

だが、中にはあえて

「後味の悪いエンディング」

を選んだ作品がある。

そして実はそういう作品こそ、勉強になったりするんだ。

「何故、こういうエンディングになったんだ?」

と考える切っ掛けになるからね。

そんなイメージを持っているから、あえて後味の悪いエンディングを選択した映画を観た時に

「何故、こういうラストを選んだのか?」

をいつも考える。



映画を観てエンディングから考察していくというのは、

実はFootball(いわゆるサッカーね)においての守備から

ゴールまでの検証に近い。

Footballと映画では時間軸が逆なのでわかりづらいけどね。


Footballにおいて、攻撃は必ず守備から始まっている。

だから点が取れない時に「サブのフォワードを入れろ」みたいな指摘は大抵間違っている。

まずはボールを奪う。

それからパスを繋いだり、ドリブルで仕掛けたりして後ろから前へボールを運び、

結果としてゴールがある。

だから、途中の過程をきちんと検証してどこがボトルネックなのかを見付けないといけない。

とにかく他のフォワード入れろとか、スリートップにしろ、みたいなのは映画で言えば第三幕、時間にして、残り30min.だけ観て、作品の価値を述べてしまうみたいな意見なわけだ。


とにかく、ハッピーエンドを目指したのに数ある選択肢の中から

わざわざ後味の悪いエンディングを選んだからにはそうせざるを得ない必然があって、

その必然こそが作品のキーなんだ。



多分ね、どんな映画も、例えば社会主義を扱ったゴダール作品ですら、

つまるところはエンターテインメントであり、

文学は突き詰めれば他者との接触を描くもの、

なんだと思う。

昔、「エンタメ、エンターテインメントってそもそも何?」 と思って辞書を引いたら

大雑把に言うと「歓待する」って意味だったんだけど、「歓待する」為には念入りに

準備をしなければならない。

それが伏線と呼ばれるモノだったりするんだけど、そういった仕掛けは主人公ではなく、

観客に『伏線』とわかるように作品中で提示される。

「え?! そんなシーンあったっけ」では伏線にならないんだよ。

だから、現実のそれのようにあまりに唐突でそれ故に過酷な運命は映画では

ご都合主義とされてしまうが、文学であれば不条理故、情け容赦ないリアリティとなって

読み手を襲う。


 また、他者とは決してわかり合えない、関与出来ない相手なので、

結局、文学はすっきりとハッピーエンドとはいかない。

いかないのが当たり前なんだけど、それが当たり前だからこそハッピーエンドを目指すべきで、

それが作家の探す希望と言える。

世界とは調和出来ない事を思い知らされ、それでも関与して裏切られ、

そうやって徹底的に孤立した結果として、それこそが自分という存在なんだ、と

肯定出来るようになる、というのが文学の価値だったりするんじゃないかな、と。

映画でもそういったエンディングのものも多いけど、

それでもやはりエンターテインメントだな、と。

まぁ、そういう事を「後味の悪いエンディング」を選んだ作品から学んだわけです。

「なんでこんな後味の悪いエンディングなんだ? なるほど、確かにそうせざるを得ないよな。

そうじゃないときちんとエンターテインメントとして成立しないし」

みたいな感じ。

勿論、文学にもすっきりしたエンディングの作品もいっぱいあるだろうから、

一般的に言えばという話なんだけどね。



これは直感レベルの予想なんだけど、

これからはダメな親に育てられ、もしくは放置された子供たちの作る作品

って増えてくると思う。

デイヴィッド・リンチがインタビューで、

「自分たちはアメリカ始まって以来、親の世代より貧しい世代だった」

と話していて、ちょうど俺たちの世代がそこに当たり、

その俺たち世代が作った子供たちが映画や小説を作るとそうなるんじゃないか、

という気がするんだよ。

(ダメな親に育てられた主人公の映画でパッと浮かぶのは『理由無き反抗』なんだけど、

微妙に違うね。主人公の心情はなんとなく体感としてわかるんだけど、理屈では覚えていない。観直さないと。)

でも、そういう映画や小説って、あまり必要とされない気がする。

逆にそこにはいかないように充分に神経を使っていると、良い作品になるんじゃないかな、

と俺は思うんです。

きっと多くの人がそういう映画を作ると思うから、別の事をやるべきじゃないか、と。

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ある種の人にとって世界はあまりに過酷なので、
生きていく上でかけがえの無い存在/対象や、執着する美が必要になる。

大抵の物語にはそれがきちんと含まれている。

オタカラというものがそれに当たり、映画の場合は映像表現だから

きちんとそれが画面に映るもの、眼に見えるものとして提示されている。


その生きていくのに必要なものが失われると、物語が始まる。

脚本で言うプロットポイントに当たり、それを取り戻す事を外的目的という。

物語とは、成長であり冒険だ。

その必要なものにいつまでも依存していると、主人公は成長をしない。

つまり、物語が不要になって日常がそこにあるという事になる。


日常は退屈な反復だが、成長は常に痛みを伴う。

生き別れ、死に別れ、失われて、その対価として主人公は成長してゆく。

しかし、そこで収支のバランスがきちんととれていないと、
出費が収入を上回ってしまうと、

主人公は不幸になる。

失うばかりで得るものがなければ、主人公は物語という旅の途中で野垂れ死ぬ。

フィクションではなく、現実の世界もまた同じかな。

ただ、現実の世界は旅に出なくても何もしなければ日々、色々なものを失っていくので、

物語よりも厳しいかもしれない。


物語の王道は「努力をしたので彼は成長しました」となるのだが、現実には成長には常に喪失の痛みが伴う。

俺はその痛みを書き落としてはいけない、と思っている。


大人の物語では、世界はいつも苦しみに満ちている。

逆説的だが、それは子供の眼差しだ。

成長の為の冒険が物語なので必然、未熟な大人が主人公になるからだろう。


成長とは新しいかけがえのないものを発見する事だろうか?

それとも必要としないでも生きていける力を得る事なのだろうか?

自立とは、自分自身を頼りにするという事だから後者なのかな。

生活を豊かにする為ではなく、逃げ込む為の美や快楽は趣味的。

趣味的なものは現実を越える力を持たない。

趣味的な美は、暮らしを豊かにしているようで、現実にはしていない。

暮らしの豊かさは、日々、成長しているか否か、で決定される、

と俺は思っている。

そして、

「世の中はあまりに息苦しいので、これ無しでは生きてはゆけないという掛け替えのないものが常に必要で、それを探し続けて発見し、自分のものにする」

というのは、実は自分自身を頼りにする事よりも難しい。

多分、自立する事よりも難しい。


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