ある種の人にとって世界はあまりに過酷なので、
生きていく上でかけがえの無い存在/対象や、執着する美が必要になる。

大抵の物語にはそれがきちんと含まれている。

オタカラというものがそれに当たり、映画の場合は映像表現だから

きちんとそれが画面に映るもの、眼に見えるものとして提示されている。


その生きていくのに必要なものが失われると、物語が始まる。

脚本で言うプロットポイントに当たり、それを取り戻す事を外的目的という。

物語とは、成長であり冒険だ。

その必要なものにいつまでも依存していると、主人公は成長をしない。

つまり、物語が不要になって日常がそこにあるという事になる。


日常は退屈な反復だが、成長は常に痛みを伴う。

生き別れ、死に別れ、失われて、その対価として主人公は成長してゆく。

しかし、そこで収支のバランスがきちんととれていないと、
出費が収入を上回ってしまうと、

主人公は不幸になる。

失うばかりで得るものがなければ、主人公は物語という旅の途中で野垂れ死ぬ。

フィクションではなく、現実の世界もまた同じかな。

ただ、現実の世界は旅に出なくても何もしなければ日々、色々なものを失っていくので、

物語よりも厳しいかもしれない。


物語の王道は「努力をしたので彼は成長しました」となるのだが、現実には成長には常に喪失の痛みが伴う。

俺はその痛みを書き落としてはいけない、と思っている。


大人の物語では、世界はいつも苦しみに満ちている。

逆説的だが、それは子供の眼差しだ。

成長の為の冒険が物語なので必然、未熟な大人が主人公になるからだろう。


成長とは新しいかけがえのないものを発見する事だろうか?

それとも必要としないでも生きていける力を得る事なのだろうか?

自立とは、自分自身を頼りにするという事だから後者なのかな。

生活を豊かにする為ではなく、逃げ込む為の美や快楽は趣味的。

趣味的なものは現実を越える力を持たない。

趣味的な美は、暮らしを豊かにしているようで、現実にはしていない。

暮らしの豊かさは、日々、成長しているか否か、で決定される、

と俺は思っている。

そして、

「世の中はあまりに息苦しいので、これ無しでは生きてはゆけないという掛け替えのないものが常に必要で、それを探し続けて発見し、自分のものにする」

というのは、実は自分自身を頼りにする事よりも難しい。

多分、自立する事よりも難しい。


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