シナリオライターのFiction Diary 2 | 松慎一郎

脚本家・ライター:松慎一郎のBlog。 『誤字脱字・破綻上等&気が向いた時に書き飛ばし』でGo。

タグ:デイヴィッド・リンチ

引きで位置関係を見せてあとはバストアップの切返し。

映像において演出されていない会話シーンは、まぁ、そんなものなんだろう。

小説では延々、カッコで括られた会話が続いて、時折、

"と、彼は言った。"

が挟まれるだけ、みたいな感じと言えば良いのだろうか。

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聴きたくなった時にすぐにアクセス出来るように公開しておく。

ガーリーって言うか、なんか女の子的な感じで良いよね。

いかにもリンチが好きそうな音色。

俺が脚本上で女の子が初めて彼を部屋に招くシーンを作るとしたら、

レコードに落とされる針のアップ。

そしてこの曲から部屋の中って流れにするかも。

まぁ、シーンは文脈から作られるべきものであって、曲のイメージから作るものじゃないけどね。



同じ女の子でもChromaticsは違う。

これも、いかにもリンチが好きな音色だ。

『マルホランド・ドライブ』のこのシーンも同様。

音楽と映像のマッチングが抜群でとにかく印象に残る。

シーンの入りが俯瞰からっていうのが効いたのかな。

壁の向こう、子供用プールとそこに浮かぶおもちゃのヨット。
主人公はこれ以前に大きな変化を体験している。

その嵐のような経験を経てのコントラストが見事だね。
成長、ではなく、もう戻らない日常という感覚かな。

映画本編のこのタイミングでそれを挟むか、という感じ。


あとはやっぱりコレですが。


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ブレストって実際、どうなんすかね?

俺はあまり、生産的なブレストって経験した事ないですよ。

出席者それぞれが何を考えているのか、を知るのには役には立つけど、それにほとんどの時間を取られるようなMTGには出たくない。

例えば、ストーリーアイディアを固めるMTGで、思いつきで「海を撮りたい」とか、「路面電車で何かあったら面白い画が撮れる」とか、その手の提案がパラパラと出てくる事がある。

俺はそれら提案をアイディアとは認めない。

ストーリーにおいて、アイディアとは、「対立軸の発見」だ。

その対立軸の建て方が斬新であれば文字通り、物語は新機軸となる。

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無名の一般人であってもその身の上に現実に起こった事を時系列に並べると、

運命があまりに過酷に作用していると驚かされた事がある。

だが、それを脚本の構造にきちんとビルドアップすると、その強烈さは失われる。

「ドラマチックで面白いと思ったけど、映画向きではないのか?」

と思いきや、そうではなく映画はエンターテインメントだからなんだ、と思い至った。

わかりにくいと思う。



大抵の映画作りの本には

「ラストはハッピーエンドで締めろ」

という事になっていて、ハッピーエンドを目指す事それ自体は

正しいと思う。

だが、中にはあえて

「後味の悪いエンディング」

を選んだ作品がある。

そして実はそういう作品こそ、勉強になったりするんだ。

「何故、こういうエンディングになったんだ?」

と考える切っ掛けになるからね。

そんなイメージを持っているから、あえて後味の悪いエンディングを選択した映画を観た時に

「何故、こういうラストを選んだのか?」

をいつも考える。



映画を観てエンディングから考察していくというのは、

実はFootball(いわゆるサッカーね)においての守備から

ゴールまでの検証に近い。

Footballと映画では時間軸が逆なのでわかりづらいけどね。


Footballにおいて、攻撃は必ず守備から始まっている。

だから点が取れない時に「サブのフォワードを入れろ」みたいな指摘は大抵間違っている。

まずはボールを奪う。

それからパスを繋いだり、ドリブルで仕掛けたりして後ろから前へボールを運び、

結果としてゴールがある。

だから、途中の過程をきちんと検証してどこがボトルネックなのかを見付けないといけない。

とにかく他のフォワード入れろとか、スリートップにしろ、みたいなのは映画で言えば第三幕、時間にして、残り30min.だけ観て、作品の価値を述べてしまうみたいな意見なわけだ。


とにかく、ハッピーエンドを目指したのに数ある選択肢の中から

わざわざ後味の悪いエンディングを選んだからにはそうせざるを得ない必然があって、

その必然こそが作品のキーなんだ。



多分ね、どんな映画も、例えば社会主義を扱ったゴダール作品ですら、

つまるところはエンターテインメントであり、

文学は突き詰めれば他者との接触を描くもの、

なんだと思う。

昔、「エンタメ、エンターテインメントってそもそも何?」 と思って辞書を引いたら

大雑把に言うと「歓待する」って意味だったんだけど、「歓待する」為には念入りに

準備をしなければならない。

それが伏線と呼ばれるモノだったりするんだけど、そういった仕掛けは主人公ではなく、

観客に『伏線』とわかるように作品中で提示される。

「え?! そんなシーンあったっけ」では伏線にならないんだよ。

だから、現実のそれのようにあまりに唐突でそれ故に過酷な運命は映画では

ご都合主義とされてしまうが、文学であれば不条理故、情け容赦ないリアリティとなって

読み手を襲う。


 また、他者とは決してわかり合えない、関与出来ない相手なので、

結局、文学はすっきりとハッピーエンドとはいかない。

いかないのが当たり前なんだけど、それが当たり前だからこそハッピーエンドを目指すべきで、

それが作家の探す希望と言える。

世界とは調和出来ない事を思い知らされ、それでも関与して裏切られ、

そうやって徹底的に孤立した結果として、それこそが自分という存在なんだ、と

肯定出来るようになる、というのが文学の価値だったりするんじゃないかな、と。

映画でもそういったエンディングのものも多いけど、

それでもやはりエンターテインメントだな、と。

まぁ、そういう事を「後味の悪いエンディング」を選んだ作品から学んだわけです。

「なんでこんな後味の悪いエンディングなんだ? なるほど、確かにそうせざるを得ないよな。

そうじゃないときちんとエンターテインメントとして成立しないし」

みたいな感じ。

勿論、文学にもすっきりしたエンディングの作品もいっぱいあるだろうから、

一般的に言えばという話なんだけどね。



これは直感レベルの予想なんだけど、

これからはダメな親に育てられ、もしくは放置された子供たちの作る作品

って増えてくると思う。

デイヴィッド・リンチがインタビューで、

「自分たちはアメリカ始まって以来、親の世代より貧しい世代だった」

と話していて、ちょうど俺たちの世代がそこに当たり、

その俺たち世代が作った子供たちが映画や小説を作るとそうなるんじゃないか、

という気がするんだよ。

(ダメな親に育てられた主人公の映画でパッと浮かぶのは『理由無き反抗』なんだけど、

微妙に違うね。主人公の心情はなんとなく体感としてわかるんだけど、理屈では覚えていない。観直さないと。)

でも、そういう映画や小説って、あまり必要とされない気がする。

逆にそこにはいかないように充分に神経を使っていると、良い作品になるんじゃないかな、

と俺は思うんです。

きっと多くの人がそういう映画を作ると思うから、別の事をやるべきじゃないか、と。

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