ボブ・マーリーの”Redemption Song”という有名な曲があって、俺は高校生の頃にこの曲を知って、当時から「どうしてこれが贖罪なんだろう」と気になったんだけど、なんとなく放置してきたわけです。

歌詞読んでも全然、わからなかったしね。


「俺の歌はすべて自由・解放の歌だ」と彼は言う。

ネットや書籍に掲載されている彼のインタビュー等を読んでいると、彼の目指す自由・解放とはつまり、「魂の自由」だという事がわかる。

そして「差別や抑圧といった外部やシステムによる束縛は、『本当の自由・解放』を得る為の必要条件か、必要な過程に過ぎない」という事を数年前、"Redemption Songs"の歌詞を読み直して、知ったのです。


「そもそも魂の自由って一体なに?」という事なのですが、基本的には恨みつらみや怒りといったネガティブな心の状態と無縁でいる事、なのだと思う。

やっかいな奴とは関わらないという意味ではない。

乱暴に言ってしまえば、そういう感情に囚われるようなアクシデントに遭っても『折れない』という事なんだと思う。

『折れない』と言うと根性論みたいになってしまうんだけど、そうではなくて「許す」という事です。

確かに腹痛のように恨みつらみを抱えて生きている時、もしくは怒りに駆られている時、人は自由ではない。

だから少なくともその手のネガティブな感情は許す事で人は自由になれる。

だけど、許すとは本来、「絶対に許し得ない相手を許す」という事であり、許しはそれ自体が矛盾している。

偽善者のそれと違ってボブのようにゲットーから立ち上がってきた人間であれば、なおさらの事だと思う。

『許し難い人間を許す』

その矛盾を克服するのは、容易ではない。

だからこそ、許しは尊い。


ボブ・マーリーの場合、矛盾を克服する力は、ラスタファリズムという信仰だ。

どんな苦難があろうとも、全能の神が与えてくれた力強い両腕があるのだから、私は勝利者だ、克服してみせる、と。

ラスタファリズムのベースにはキリスト教がある。

だから、タイトルの「贖罪」は宗教的象徴としては人類の罪を背負って十字架に架けられるという事であり、個人的・具体的に言えば、私は彼らの罪を許すという事。

奴隷船に自分を放り込んで売り払った人間をふざけんな、殺してやる、じゃなくて、

「彼らは罪を犯したが、私は神様からこの丈夫な二本の腕を頂いているので私の事は心配しないでください。私の事は心配しないで良いから、彼らの罪を許して欲しい」

という意味で、Redemption Songなわけです。


そんな事を知って、俗な言い方をしてしまえば、とにかくボブ・マーリーの器のデカさに感動したんだけど、どれだけ感動しても俺はだらしのない人間なので信仰を持つ事は恐らく不可能。(信仰とストイシズムは恐らくセットだよね)

そして作品を作る上で結論(矛盾を克服するもの)として宗教を使ってしまえば、それこそ『なんでもあり』になってしまうので、それに代わる何かを見出さなければならない。

しかし、それはどんな作品にも使えるような便利なものではなくその都度、主人公か読者・観客によって発見されなければならないものになるだろう。

そう考えると自分のような仕事で特定の宗教や政治信条にアイデンティティを預けてしまうというのは、絶対にやってはいけない事だし、どう転んでもそういう事にならない人間だから、脚本だの作品だのと頭を悩ましている人間になったわけです。

まぁ、怠惰な人間性がブレーキになっているというのもなんですが。


ところで、確率1/20を提示された時、19回外し続けたギャンブラーが「次は20回目だから当たるかも」と考えて、挑戦するのが敗退のメカニズム。

数学的には毎回、1/20になるのが正解だからだ。

一回一回の勝負は文脈ではなく、すべて瞬間、別個のものだ。

才能について聞かれた時、森毅・京都大学名誉教授は

「一般人は才能をあるか/ないか、1/0で考えるが、数学者はそうは考えない。才能とは、何回目で当たりを引くかという事に過ぎず、一回目で当たりを引く人も居れば、百万回引いて当たりが出る人もいる」

と答えた。

ギャンブルの確率と同じで、いくら善行を重ねても罪を償う事は出来ない。

罪と善行は別個に存在するからだ。

善行は善行であり、それが犯してしまった罪に決定的な関与をする事は無い。

罪は消す事が出来ない。だから、罪はそれ自体が哀しい。

救われる事があるとすれば、それは相手に許される事しか可能性は無いのだ。


それだけにRedemption Songは美しい。

自分をさらって奴隷として売り飛ばした人間の罪を許してやってください、とBobは歌っている。

このように誰もが求める「自由」は、それを手にする事は困難で、少なくとも禁煙やダイエットすら出来ない人間には無縁のものだ。

でも、だからと言って「君には自由を求める資格などない」なんて、誰にも言わせてはならない。

自分の事は自分で決めるのは、当たり前の事だから。