主人公、熊、主人公を追うネイティブ・アメリカン。
三者ともに行動原理の背景にあるのは家族。
同一の主題がフーガのように紡がれてゆく。
主人公が冒頭で熊に襲撃されるのは、それを観客に示すため。
「復讐は無意味なのか?」という問い、復讐の是非を中盤に登場するキャラクターが、
「復讐は創造主の手に委ねる」
と主人公に話す。
生活の全てを復讐に捧げることの無意味が、その理由だ。
「創造主の手に委ねる」は、具体的に物語終盤に提示される。


物語中、喪失した家族についてのイメージシーンが何度か繰り返される。
そういう意味では「文学的」と言えるかもしれない。
ちなみに、奇跡とは「喪失した対象との再会」だ。

物語は至ってシンプル。
シンプルな物語を2016当時、最も高度な技術でリアライズした作品。
単一のテーマに多角的に迫るのではなく、繰り返すことで迫るのは、
主題が極めて普遍的だから、なのかもしれない。

「あるシーンで音楽をつけると、『あなたは今までこういうことをやってきたでしょう。でも今回は違うのが欲しい』と。それが、2001年から10年間組んできたドイツの音楽家アルヴァ・ノトとのノイズ的な音の感じを使いたかったようです。後で知ったのですが、彼は映画音楽だけではなく、僕の音楽を全て聴いていたんです」
とサウンドトラックを手掛けた坂本龍一はインタビューで答えている。
坂本龍一が明かす『レヴェナント』オスカー監督との妥協なき創作現場「ノイローゼになりかけた」

前作「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」のDrumsだけで構成されたサウンドトラックを想起すると、
そういうチャレンジを監督が欲するのは自然に思える。
本作の舞台背景と照らし合わせてみるとインダストリアルな音のマッチングは奇妙に思えるかもしれないが、
映画のサウンドトラックがそういう方向に発展すべき、という考え方は圧倒的に正しい。
大切なのは不自然さ(大業な芝居くささ)の排除、だからだ。
また、都会ではなく広大な大自然だからこそ、ノイズ的なBGMがフィットするというのは、ここ二十年くらいで発見された感覚だが、
おそらくはその感覚は70年代のヒッピー文化が90年代にリバイバルされた時に発見された。
これもまたフーガ?
マルチプロットで構成された21グラム、アモーレス・ペロスに本作に共通する構成が存在するのか、後でチェックする。
 

追記:
鑑賞直後、
「ラストの対決、黒澤明なら一瞬の勝負で決めるはずで、それこそが黒澤の切れ味…」
とか考えていたのだが、そうなると「創造主に委ねる」ことが不可能になる。
それでは自分が脚本ならどうするか?