二十代の半ば頃だったかな、骨董通りでアルマーニのスーツの美しさに気付いた日の夕暮れ時を覚えている。


俺にはアルマーニのスーツは必要ないし、スーツが必要だと思っても高額なアルマーニは自分にはふさわしくないから買わない。

そもそも、スーツが驚異的に似合わないんだ。だけど、そんな自分がその美しさに気付けた事が嬉しかった。

本当はさ、ファッションとか美術とか、あまり自信が無いんだよ。

あまりそういう事を考えずに生きてきてしまったから。

だから正しくは「アルマーニのスーツの美しさ」に気付いたのではなく、美を獲得する為の徹底した仕事ぶりを感じて、人間の持っている可能性の偉大さに気がついたんだと思う。


美について思いを巡らせてみれば、自分の場合は思い浮かぶものは空や海といった人の手が加わっていないものばかりで、つまりはあるがままにあるもの、存在そのものという事になる。

作家の山川健一さんから

「ローリング・ストーンズがブルースに学んだバンドである事が示す通り、優れた表現には必ず、哀しみが内包されている」

と直接、教えて頂いた事があるんだけど、そう考えると

「哀しみ・他者の痛みに敏感である事が美に対しての感受性を測る一つの基準」

になる。

だから飾り立てたり、他との比較で競い合えば、そうすればそうするほどに美から離れてゆくだろう。

孤立し、孤独の中で他者を求め、争い、傷つき、傷付け、裏切られ…そういった中で人は痛みや哀しみを学ぶ。

そうやって自らの体験をもとに他者の痛みをイメージする事で、美に対する感受性もまた育まれてゆく。

だから美とは存在そのもので、存在とは自立したものであり、孤立したものだから、孤独なのだ。

逆に何かに依存するとその瞬間に美は失われるだろう。

美とは存在→存在とは自立したもの。


他者に認識されなければ存在しない、という反論もあると思うし、その反論は正当なものだと思う。

だけど、「自分の存在が他者にどう解釈されるのか」は自分ではコントロール出来ないのだから、矛盾ではない。まぁ、コミュニケーションをどう考えるか、にもよるんだけどね。

「おそらく、誰も自分を理解してはくれない」「おそらく、誰も自分など愛してくれない」という現実を受け入れなくてはならない。

「誰一人、自分を必要とする人間がいない世界」、「誰一人、自分を理解してくれない世界」、「誰一人、自分を愛してはくれない世界」……そんな無価値な世界の中で自分が想わずにいられない大切な誰か、もしくは何かを発見する事。

そして誰にも必要とされない自分がどれだけ強く、その誰かや何かを想い続けられるか、が重要なのだと思う。

何故なら、それは無価値な世界に起こった奇跡だから。

そしてそんな風に「まったく割りに合わない世界を、到底、許容出来ない他者もまた、生きている」という現実を知らなければならない。

それが他者を尊重する事であり、自立であり、大人であるという事なのだから。

だから、孤独はつらいけど、独りぼっちを恥じる事も恋人がいない事や友達が少ない事を哀しむ必要もないんだよね。

いずれにせよ、世界に向かって自分を理解してくれ、と泣き叫んでいるような作品や生き方からは遠く離れていたいものです。

ひどく幼い事を書いているように思われるかもしれないけど、意外とそういう作品や組織って、意外と眼にするんで一応ね。