シナリオライターのFiction Diary 2 | 松慎一郎

脚本家・ライター:松慎一郎のBlog。 『誤字脱字・破綻上等&気が向いた時に書き飛ばし』でGo。

だいぶ時間が経ってしまったけど、ローリング・ストーンズのライヴのお話。

多分、一番多くライブに行ったアーティストはストーンズなんだけど、今回はパスする予定だった。

とにかく、生き延びる為にこなさなければならない仕事を多く抱えていて、自分のやりたいことのほとんどを封印している状態がもう何年も続いているから、ストーンズどころではない、というのが俺の日常なのだ。

だけど、たまたま今回は先月、誕生日だったこともあってチケットを頂いて、足を運んだんだ。


俺は十代の頃からストーンズとは多くの時間を過ごしてきて、今となっては途絶えてしまった、多くの別れがたく大切な人と、ストーンズを聴いた。

それでも、俺の周りでストーンズ好き!という友人は常に十人を超えることはなかったかな。

日本でのストーンズ人気はそんなものだと思う。

日本でのストーンズ人気をそんな風に思っていたので、東京ドームに着いた時に会場周辺に「今日はストーンズだ!」と明確な期待が満ち溢れていて驚いた。

こんなにストーンズ好きっていたの? っていう感じ。

普通は自分と価値観を共にする人が多くいるのを感じてなんとなく嬉しくなったりするものだと思う。

だけど、俺は違った。

なんというか、孤立感を強く感じた。ストーンズのライブに行ってこんな事を感じたのは初めてで、俺にとって、ストーンズだけが絶対ではなくなったからかな、と思ったけど、恐らくそうではない。



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無名の一般人であってもその身の上に現実に起こった事を時系列に並べると、

運命があまりに過酷に作用していると驚かされた事がある。

だが、それを脚本の構造にきちんとビルドアップすると、その強烈さは失われる。

「ドラマチックで面白いと思ったけど、映画向きではないのか?」

と思いきや、そうではなく映画はエンターテインメントだからなんだ、と思い至った。

わかりにくいと思う。



大抵の映画作りの本には

「ラストはハッピーエンドで締めろ」

という事になっていて、ハッピーエンドを目指す事それ自体は

正しいと思う。

だが、中にはあえて

「後味の悪いエンディング」

を選んだ作品がある。

そして実はそういう作品こそ、勉強になったりするんだ。

「何故、こういうエンディングになったんだ?」

と考える切っ掛けになるからね。

そんなイメージを持っているから、あえて後味の悪いエンディングを選択した映画を観た時に

「何故、こういうラストを選んだのか?」

をいつも考える。



映画を観てエンディングから考察していくというのは、

実はFootball(いわゆるサッカーね)においての守備から

ゴールまでの検証に近い。

Footballと映画では時間軸が逆なのでわかりづらいけどね。


Footballにおいて、攻撃は必ず守備から始まっている。

だから点が取れない時に「サブのフォワードを入れろ」みたいな指摘は大抵間違っている。

まずはボールを奪う。

それからパスを繋いだり、ドリブルで仕掛けたりして後ろから前へボールを運び、

結果としてゴールがある。

だから、途中の過程をきちんと検証してどこがボトルネックなのかを見付けないといけない。

とにかく他のフォワード入れろとか、スリートップにしろ、みたいなのは映画で言えば第三幕、時間にして、残り30min.だけ観て、作品の価値を述べてしまうみたいな意見なわけだ。


とにかく、ハッピーエンドを目指したのに数ある選択肢の中から

わざわざ後味の悪いエンディングを選んだからにはそうせざるを得ない必然があって、

その必然こそが作品のキーなんだ。



多分ね、どんな映画も、例えば社会主義を扱ったゴダール作品ですら、

つまるところはエンターテインメントであり、

文学は突き詰めれば他者との接触を描くもの、

なんだと思う。

昔、「エンタメ、エンターテインメントってそもそも何?」 と思って辞書を引いたら

大雑把に言うと「歓待する」って意味だったんだけど、「歓待する」為には念入りに

準備をしなければならない。

それが伏線と呼ばれるモノだったりするんだけど、そういった仕掛けは主人公ではなく、

観客に『伏線』とわかるように作品中で提示される。

「え?! そんなシーンあったっけ」では伏線にならないんだよ。

だから、現実のそれのようにあまりに唐突でそれ故に過酷な運命は映画では

ご都合主義とされてしまうが、文学であれば不条理故、情け容赦ないリアリティとなって

読み手を襲う。


 また、他者とは決してわかり合えない、関与出来ない相手なので、

結局、文学はすっきりとハッピーエンドとはいかない。

いかないのが当たり前なんだけど、それが当たり前だからこそハッピーエンドを目指すべきで、

それが作家の探す希望と言える。

世界とは調和出来ない事を思い知らされ、それでも関与して裏切られ、

そうやって徹底的に孤立した結果として、それこそが自分という存在なんだ、と

肯定出来るようになる、というのが文学の価値だったりするんじゃないかな、と。

映画でもそういったエンディングのものも多いけど、

それでもやはりエンターテインメントだな、と。

まぁ、そういう事を「後味の悪いエンディング」を選んだ作品から学んだわけです。

「なんでこんな後味の悪いエンディングなんだ? なるほど、確かにそうせざるを得ないよな。

そうじゃないときちんとエンターテインメントとして成立しないし」

みたいな感じ。

勿論、文学にもすっきりしたエンディングの作品もいっぱいあるだろうから、

一般的に言えばという話なんだけどね。



これは直感レベルの予想なんだけど、

これからはダメな親に育てられ、もしくは放置された子供たちの作る作品

って増えてくると思う。

デイヴィッド・リンチがインタビューで、

「自分たちはアメリカ始まって以来、親の世代より貧しい世代だった」

と話していて、ちょうど俺たちの世代がそこに当たり、

その俺たち世代が作った子供たちが映画や小説を作るとそうなるんじゃないか、

という気がするんだよ。

(ダメな親に育てられた主人公の映画でパッと浮かぶのは『理由無き反抗』なんだけど、

微妙に違うね。主人公の心情はなんとなく体感としてわかるんだけど、理屈では覚えていない。観直さないと。)

でも、そういう映画や小説って、あまり必要とされない気がする。

逆にそこにはいかないように充分に神経を使っていると、良い作品になるんじゃないかな、

と俺は思うんです。

きっと多くの人がそういう映画を作ると思うから、別の事をやるべきじゃないか、と。

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ある種の人にとって世界はあまりに過酷なので、
生きていく上でかけがえの無い存在/対象や、執着する美が必要になる。

大抵の物語にはそれがきちんと含まれている。

オタカラというものがそれに当たり、映画の場合は映像表現だから

きちんとそれが画面に映るもの、眼に見えるものとして提示されている。


その生きていくのに必要なものが失われると、物語が始まる。

脚本で言うプロットポイントに当たり、それを取り戻す事を外的目的という。

物語とは、成長であり冒険だ。

その必要なものにいつまでも依存していると、主人公は成長をしない。

つまり、物語が不要になって日常がそこにあるという事になる。


日常は退屈な反復だが、成長は常に痛みを伴う。

生き別れ、死に別れ、失われて、その対価として主人公は成長してゆく。

しかし、そこで収支のバランスがきちんととれていないと、
出費が収入を上回ってしまうと、

主人公は不幸になる。

失うばかりで得るものがなければ、主人公は物語という旅の途中で野垂れ死ぬ。

フィクションではなく、現実の世界もまた同じかな。

ただ、現実の世界は旅に出なくても何もしなければ日々、色々なものを失っていくので、

物語よりも厳しいかもしれない。


物語の王道は「努力をしたので彼は成長しました」となるのだが、現実には成長には常に喪失の痛みが伴う。

俺はその痛みを書き落としてはいけない、と思っている。


大人の物語では、世界はいつも苦しみに満ちている。

逆説的だが、それは子供の眼差しだ。

成長の為の冒険が物語なので必然、未熟な大人が主人公になるからだろう。


成長とは新しいかけがえのないものを発見する事だろうか?

それとも必要としないでも生きていける力を得る事なのだろうか?

自立とは、自分自身を頼りにするという事だから後者なのかな。

生活を豊かにする為ではなく、逃げ込む為の美や快楽は趣味的。

趣味的なものは現実を越える力を持たない。

趣味的な美は、暮らしを豊かにしているようで、現実にはしていない。

暮らしの豊かさは、日々、成長しているか否か、で決定される、

と俺は思っている。

そして、

「世の中はあまりに息苦しいので、これ無しでは生きてはゆけないという掛け替えのないものが常に必要で、それを探し続けて発見し、自分のものにする」

というのは、実は自分自身を頼りにする事よりも難しい。

多分、自立する事よりも難しい。


■今日、気になった記事

菊地成孔と行く『日本近代音楽の150年』展
動物が自ら命を絶った9の事案とその自殺理由

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日記というのは

「日常を記すもの」

なんだろうけど、

「日常の何を記録するか?」

なんて普通はいちいち考えて日記を書いたりしない。

そんなわけで、このBlogなんかはまさにそうなんだけど思いつくままに自動書記的にダーッと書いていくと書き綴られているのが「違和感」であったりする事に気付く。

多分、これは俺だけではない。

例えば、まだ暑いと思ってTシャツで出掛けたけど、帰りは寒かった、みたいな事も昨日までと今日の違いだったりするわけで。

事実がどうあれ、「永遠に同じ日が続く」と実感している人が毎日、日記を書くというのは多分、無理だと思うし、書いても無意味だと思う。


社会とは「色んな人がいるところ」だ。

「色んな人」は他者と呼ばれる。

つまり、「他者の集合体が社会」。


他者は絶対にわかりあえないと言うか、相容れる事が難しい存在。

生きている限り、相容れない存在と争い続けるのも、気に喰わないからと徹底的に排除し続けるのも現実には不可能で、誰もが相容れない相手と辛抱強く向き合って、なんとか折り合いながら、大変な苦労を抱えて生きているわけです。


大抵の人は「夏休みの絵日記を毎日書く」っていう宿題に、大変な苦労をしたと思うが、あれは今思うと、そもそもが無理な話なのだ。

大抵の子供は社会に生きてはいるけど、社会に塗れて生きているわけじゃないから、ギャップなんかない。違和感がなければ、「何も書くことがない」というのは当たり前。

そもそも親の庇護の下、生きていたら他者と出会い、粘り強く、辛抱して折り合っていく、なんて事は必要ない。


EV Cafeっていう本だったと思うんだけど、吉本隆明の子供の頃が大変、興味深い。

吉本隆明が子供の頃は戦時中だった。

上官が話している時に整列しない、ガムを噛んでいる、煙草を吸っている米兵たちを見て、周囲の大人たちは「あんなだらしない奴らに日本が負けるわけがない」と笑っていたが、吉本隆明少年は「日本は負ける」と直感した。

米軍が「個を活かす」集団であるという事を直感したからだ。

集団を個の集合体と考えるか、

個は集団の一要素として考えるか、

は、立場によって違うと思う。

しかし、これからは前者で考えておいた方が良い。

トップダウンは発展途上国向きだから。

とにかく、

社会とは何か?

個人とは何か?

について、考えておいた方が良い時代だし、なんとなく漠然と「こんなニュアンス」ととらえていた概念の大半がゆっくりと、目に見えない形で変わっていくと思う。

目に見える形はジェネレーション・ギャップなんだけどね。

こういった抽象力でしか発見出来ない事がある、という事を、俺は柄谷行人の「探究」に学んだ。
だけど、それを説明するのは難しい。 

■今日、気になった記事

天安門前で車が歩道に突っ込み炎上 死傷者40人以上

豪州北部、新種の脊椎動物が3種も発見
広東省で新聞vs国有企業の壮絶な戦いが勃発! メディア完全掌握を狙う習近平政権に不穏な気配が・・・

 

 


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louReed

























世界中の小説を読んでいるわけではないので、あまり迂闊な事は言えないけど、小説は映画と比較するとあまり変化していない印象。

この先もあまり劇的な変化って起こらない気がするな。

 翻って10年後の映画は、今まで映画と呼ばれていたものとかなり変わっているんじゃないか、と思っています。

3Dとか色んな試みがことごとく失敗しているけど、失敗は試行錯誤の過程に過ぎないし、失敗している限り、新しい何かが生まれてくる可能性の芽は常に確保されている、と。(つまり、チャレンジしているという事なのですが)


 文学と映画について比較して考えてみる。一番始めに思い浮かぶのは変化のスピード。

映画ってテクノロジーの変化を受けやすいし、テクノロジーは予算と密接に関わっていて、過去に数千万単位の予算が必要な編集が自宅のMacで今は可能だったりする。
個人作業で映画が完結してしまう事のメリットはあちこちで語られているのであえてデメリットを挙げてみると、やはり映画が趣味的なもの、になってしまうという事かな。

こうやって映画の質は、テクノロジーによって変化する。

文学はまぁ、良くも悪くも映画程にはテクノロジーの進化に影響されない。

変わらないだけに、結果として普遍性が問われるので、それが文学の価値かもしれないけど。


 もう一つ、何故、10年後の映画について、「今とは全く違うものが映画と呼ばれているのではないか?」と考えているかと言えば、スピルバーグのインタビューが印象に残っているからです。


スピルバーグは

「今、自分が二十代の若者で映画を作りたいと思っていたらゴールを劇場だけに絞ったりしない。劇場とせいぜいTVしかなかった昔と違って、今はそれこそYouTubeやスマートフォンや映像を必要とするチャネルが多数存在する。それだけ映像作品を提供する場は増えた、という事だ。だから出来るだけ色んな場所でそれぞれのフォーマットを利用して作りたいと考えるだろう」

みたいな事をインタビューで答えていました。


正直、自分も劇場映画に拘りたい感じもあるんだけど、そういうこだわりって「映画」という器に頬擦りしているだけで、実際に作品に何も込められていない気がするんですよね、あくまで俺個人の考えですが。

予算も今まで以上に限られてくると、作品もニッチな客層を狙わなくてはならなくなるでしょう。

イメージとしては映画関係者は皆、インディーズバンドでライブハウス巡りをして喰い繋ぐ、みたいな感じ。

予算がない中で確実な収益を見込んだり、もしくは自腹なのでと趣味的に走りすぎて映画マニア以外、誰も映画を観なくなるかもしれない。

たまにはマニアックさ故に受けたりしてね。

同性愛者で泥棒だったジュネが自身の体験を綴った泥棒日記が全世界の人に読まれるようになった理由もそれだったかもしれないし。(作品評価は別だ)


あ、ここで言っている映画っていうのは、あくまで今日・現在まで映画と呼ばれているものだよ。

十年後、映画と呼ばれているものはアトラクションみたいなものだったり、ゲームみたいなものだったり、とどうなっているか、誰にもわからないんだから。

覚えておいて、今、映画と呼ばれているものと十年後に映画と呼ばれるモノは違っている気がするって話だからね。


■今日の出来事

今朝、ルー・リードが亡くなりました。だから今朝は彼のアルバムを聴きながらこのBlogを書きました。

俺にとって彼はSTAXのR&Bを愛したミュージシャンであり、小説『コイン・ロッカー・ベイビーズ』(村上龍)で知って、17の頃に単身、ドイツに渡った飛行機の中で聴いたアーティスト、です。

Twitterでは彼の楽曲のYouTubeへのリンクが多く貼られています。

よく誤解されるのですが、俺はロック好きじゃないです。音楽好きの『ロック好き』嫌いです。なんか、ロックを語っているおっさんって骨董好きな老人みたいで嫌なんだよね。クラプトンオヤジとか高校生の頃から嫌だった。

まぁ、そんな自分があまりTwitterでは見られなかった楽曲を以下に貼っておきましょう。

俺にとってちょっとした思い出の曲、彼の訃報に触れるまでそんな思い出を忘れていた曲です。

この曲はとっても可愛いよ。

ロック好きは嫌いだけどロックに限らず、大抵の音楽は素晴らしいと思います。

実際、音楽が嫌いって人、あまりいないでしょ?


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二十代の半ば頃だったかな、骨董通りでアルマーニのスーツの美しさに気付いた日の夕暮れ時を覚えている。


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”Nobody Knows You When You're Down And Out”という曲を知ったのは浪人をしていた頃。

ルイ・ジョーダンがカヴァーしていたヴァージョンだと思う。

季節は恐らくは冬だった。

寒風の中、缶コーヒーをすすりながらイヤーフォンで聴いていた記憶があるんだよね。

浪人生の頃の俺は、

「オマエなんかが野垂れ死んだって、誰も気にしないんだぜ」

って歌っているんだと思っていた。


だからこの曲を耳にしたり、思い出したりする度に、

「クソッ、世界はシビアだな。誰一人顧みられる事なくとも、心が折れないような何かを掴まなきゃ」

とか、

「リアルだけど残酷な事を歌っているな、残酷な真実を伝えないといけないから、こんなに優しい曲なのかもしれないけど、やっぱりつらいな」

とか思っていた。

当時、音源は安い海外盤で買っていたから歌詞カードが無くて、実際には「何についての歌っているのか」、全く知らないんだけどね。


この曲が生まれた時代のアメリカはまだ経済成長を始めたばかりで、大半の人は貧しかったのだと思う。

カリフォルニア・デザインとか生まれる前の時代、資本主義社会の主役として大衆が脚光を浴びる前の時代、大量生産・大量消費以前の時代だと思う。
(参考記事:『カリフォルニア・デザイン 1930-1965 -モダン・リヴィングの起源-』:見るべきは作品ではなく、デザインを通して見えてくるもの。

だけど次に来る豊かな時代に向けて、身の回りが豊かになる実感があるような、昨日よりは明日の方が豊かであると確かに信じられるような、時代だったのだろう。

そんな希望が芽吹き始めた目映い時代の落とす影には、恐らく踏みつけにされている人々がいた。

誰かの犠牲の上に成り立つのが資本主義だからね。

だから、絶望とないまぜの、「貧しいのは俺たちのせいばかりではない」っていうような優しさ。

そんな複雑な気持ちがその人たちに向けて歌われ、共有されていたんじゃないか、そんな風にこの曲は歌われ、生活に寄り添っていたんじゃないかっていうイメージなんだよ。

多分、違うんだろうけどさ。


この曲を知ったのは浪人生の頃、と先に書いた。

具体的には18の頃だ。
彼女はいなかったし、高校は追い出されてこの年は大検と大学の両方に受からなければならなかった。

そしてその頃から今でも「誰一人顧みられる事なくとも心が折れない何か」について、俺は考え続けている。

だけど、歌われている内容について本当のところは全く知らない。

この先も調べる事は無いと思う。

俺は事実よりも、自分が何を感じたかの方が真実だと思っているから。


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